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COFFEE BREAK
文化-Culture-
エッセイ*土屋賢二【コーヒーの魅力を捨ててきた。】
本格的なコーヒーを初めて飲んだ大学生のときから、コーヒー抜きでは生きられない身体になった。今でも毎日五杯は飲んでいる。だがコーヒー通ではない。焙煎で有名なお店で飲んでも、よさが分からない。
ではなぜ飲んでいるのか。味は苦いだけだ。コーヒーの香りは好きだが、うなぎと同様、香りだけ嗅いでいればいいというわけではない。味、香り、環境も含めた全体がコーヒーの魅力になっているとしか言いようがない。コーヒーの魅力は、神戸牛がおいしいといった味覚の魅力ではなく、疲れた心や汚れた心を癒してくれる精神的な魅力だろう。
コーヒーを好むのはふだんせわしない生活を送っている人が多いのではないかと思う。のんびり暮らす人が飲むイメージはあまりない。頭を使う職業で(頭突きを多用するプロレスラーを除く)、ストレスの多い人が、安らぎを求めて飲むのではないかと思う。コーヒーには疲れた心を鎮静化する作用があるのだ。理由は分からないが、わたしは興奮剤によってしか心を鎮静化することができない。長年ヘビースモーカーだったのも、コーラを毎日一本は飲まないと生きられないのも、そのためだ。なぜカフェインのような興奮剤が鎮静作用をもつのか理解に苦しむ(そして、人並み以上に鎮静化に努めているわたしが、なぜ落ち着きがないと言われるのかも理解に苦しむ)。
飲み方は若いころから大きく変わった。
飲む場所は今も昔も喫茶店だが、入る店が違う。若いころは、暗くて薄汚れた喫茶店を選んでいた。犯罪を犯していたわけではなく、罪が露見したこともないが、大学に入ったころは何となく後ろめたい気持ちがあり、薄暗いところでないと落ち着けなかった。明るくて清潔そうな店だと、犯した罪が白日の下に暴かれるような気がしていたたまれないのだ。このころは薄暗い場所を好むゴキブリに仲間意識をもっていた。
今は違う。若いころよりも後ろめたい部分は確実に増えているにもかかわらず、明るく清潔そうな店を選んでいる。なぜ選ぶ店が変わったのか理由は不明だが、たぶん、若いころよりも後ろめたさに対する感受性が鈍ったのか、後ろめたいことを許容するほど度量が広くなったのか、暗い店だと何も見えなくなるほど視力が落ちたかだろう。
喫茶店でコーヒーを飲みながら何をするかも変わった。昔はコーヒーを飲みながら、店に流れている音楽に聴き入り、世界の謎や東京のうどんの味について思考をめぐらしていた。コーヒーを飲む時間は、心を鎮め、内面に沈潜して思索にふける時間だった。残念なのは、当時思索していた内容はすべて浅薄か、誤っているかだったということだ。
最近は、コーヒーを飲みながら読書をするか原稿の校正をするか居眠りするかで、内面も思索も無視している。内面や思索からはロクな結果が出ないと思うからだ。
大きく違うのはタバコだ。若いころはコーヒーにはタバコがつきものだった。コーヒーとタバコは、カレーライスと福神漬けの関係、あるいはカレーライスとライスの関係に相当する。コーヒーとタバコの相乗効果で鎮静作用が倍増するのだ。にもかかわらず、今では、その切り離せないタバコを健康上の理由でやめてしまった。タバコなしでコーヒーを飲みながら、カレーライスのライスだけを食べているような気持ちを味わっている。
コーヒーに入れるものも変わった。昔は砂糖とミルクを入れて飲んでいた。砂糖の質と量にこだわり、コーヒーシュガーを茶さじ四分の一ほど入れて飲んでいた。最近、その砂糖も肥満防止のために抜いている。運動をすればいいのだろうが、運動は嫌いなので(コーヒー好きの人は運動嫌いの人が多いような気がする)、泣く泣く砂糖を削っているのだ。
今はミルクを入れるだけだ。砂糖の分を補うため、コッテリしたクリームをたっぷり入れて飲んでいるから、カロリーは以前より多く取っている。健康上はブラックで飲むのがいいのだろうが、ふだん飲んでいる薄めのアメリカンでも、ブラックは苦すぎる。「コーヒーの苦みがいい」と言う人もいるが、苦いものを嫌うのは動物の本能だ。「苦みが分からないと大人ではない」と言うなら、ブラックが好きな大人のキリンを見せてほしい。
こうしてわたしの飲み方は大きく変わった。喫茶店の暗がりにいる安心感を捨て、思索を捨て、タバコを捨て、砂糖を捨て、要するにコーヒーの魅力の大部分を捨ててきた。この調子だとコーヒーも捨てて、大嫌いな納豆を縁側で食べるようになるかもしれない。そして納豆のにおいに顔をしかめながら、健康のことを考えずコーヒーを思う存分おいしく飲んでいた昔を懐かしむだろう。
1944年生まれ。お茶の水女子大学名誉教授・哲学者。その独特な作風で、「笑う哲学者」という名のユーモアエッセイストとしても知られる。『われ笑う、ゆえにわれあり』『ツチヤ教授の哲学講義』など著書多数。